日記を書く

色の見え方が加齢によってどう変わるかという題目についてずっと勉強を行っているため、心理物理量と物理量の区別を常に付けておかないといけない、という自戒が自分の中にある。私も最初は驚いたのだが、色というのは物体の性質ではないらしい。物体が性質として持つのは、光をどのように反射するのか、という性質である。具体的には、光のスペクトルとして、波長を変数とする強さの関数となる。それらに3種の錐体のやはり波長を変数とする感度の関数を掛け合わせ、積分したものが色感覚を想起させる、のだという。よって、色は物理的性質ではなく、物理的量によって引き起こされる心理量であり、そのことを「色感覚は心理物理量である」という。まあここまでは私の創作である。さすがにそれはない。ここまで気の利いた創作を私は行えない。さて。ここまで前置きである。物体の性質かそれとも心理量なのか、という話である。わざわざ私がこの二つを分けて考えなければいけない、と自分を戒めているのは、それら二つが混同されがちであるからで、またそれは私に限った話ではないと思う。例えば、痛さやうるささなどの物理寄りのものから、楽しさ苦しさなどのかなり社会学的なアプローチが必要なものまであるわけで、間には化学の話が絡んでくる匂いや味の問題がおそらくある、だろう。そして、それらの評価はなにも珍しいものではなく、よく日常会話に登場するものである。「あのバイクうるさいな」「この本は面白い」「この料理おいしいね」など、いくらでもある。そして、それらは一見ある物体もしくはそれの現象について評価しているように見えるが、実際にこれらの言葉が示すのは、発言者の中に想起された心理量の発露であることが多い。それなのに、先ほどの台詞はあたかもその対象物固有の性質を示しているかのように、聞く人に、場合によっては発言者すらも思わされる。このすれ違いが起こらないようにするためには、主体をはっきりさせるのが一番手っ取り早い。「俺あのバイクうるさがってるな」「自分この本面白がるよ」「私この料理おいしがるよ」駄目だ。これではどこか無理しているかのように聞こえる。まるでとりたててうるさくもないバイクが、面白くない本が、まずい料理があるように感じてしまう。おいしがる?そもそもそんな日本語あるのか?美味む?余計におかしくなった。「自分あの猫かわいがるよ」意味が変わってくる。いまこんなことを言えば、最悪動物虐待の疑いをかけられてしまう。猫相撲。なんだそれは。ああ猫だましか。猫ひろしではない。閑話休題。違う方法を考える。「この料理は自分にとってはおいしいけど他の人にはどうかなぁ」自分がよく使う手である。実際そのようなものがこの世にはあふれているから仕方がない。こんにゃくのチョコレート炒めとか。これで問題なく、誤解なく伝わりそうなものなのだが、いかんせん表現が長くなる。冗長さが新たな疑念、余計な政治的メッセージを含みかねない。こういった悩みを、実は「いまどきの若者」はほぼ無意識的に回避している。「これおいしいかも」あるいは「俺的にはうまいよ」これである。実に華麗なソリューション。まさに華策である。どうすればそんな方法が思いつくのか。表現が短いうえに、物体の性質としての断定を見事に避けている。しかし、私はその方法を取りたくない。なぜかはなんとなく見当が付いているものの、はっきりはわからない。さて。今日はこんなところである。相変わらず文が読みにくいかもしれないが、それはあなたが読みにくがっているのである。おお。なんと便利な。これを子供だましといいます。ちびっ子相撲?子供はかわいがりながら育ててあげましょう。