日記を書く

雨、である。いつもならば通学途中は常に発声練習、シャドートーキングを行っているのだが、今日はそんな余裕もなく、黙考ぐらいしか出来なかった。鏡、というものの説得力について考えていた。自らの姿を見る、というのは究極的には自分の目玉をくりぬいて自分に向けるしかないのだが、普通の人はそれをせず、鏡を使う。この鏡のことを、普通は信じて疑わないわけだが、それはなぜか、といえば、鏡がとんでもない量の説得力を持っているから、と考えていいだろう。上下左右、鏡の中の物体が想像したとおりに動く。それを考えるとなにやら怖くなってきたが、所詮鏡である。そもそもなぜ急に鏡のことについて考え出したかというと、昨日「世相を映す鏡」という比喩を使ったことが引っかかっていたからなのだが、昨日の話の中に出てきたものは、「世相を映す鏡」というより『「世相を映す鏡」を映す鏡』だったのではないかとかを考えていて、そうすると、今仮に「世相を映す鏡」をM1、『「世相を映す鏡」映す鏡』をM2、以下順次M3,4,5・・・と続けたとき、M10に映ったものとM5に映ったもの、M0(類推でいけば世相そのものである)は何が違うのか、もし違わなければ、区別をする必要もないではないか、と。結局、1.鏡の反射率は100%にはなりえないこと2.一般に位相は正しく映すものの、角度、距離については正しい保証がないこと3.鏡というのは世界の窓のみを提供するようなもので、言いかえれば一部を切り取った形でしかこちらへ像を提供してくれないこと、この3つから、その疑問は急速にしぼんでいき(おそらくその3つから考えるに、層が深くなるごとに、像がゆがみながら暗く、そして小さくなっていくであろうことが推測できる)、しおしおのパーで(´・ω・`)なわけだが、ええ、簡単にまとめます、美水かがみの性別なんてどっちでもいい、と、つまりはそういう話です。おわり